先輩社員の仕事紹介(現場監督)

「人生万事塞翁が馬」
私事ではありますが、(株)橋本組へ昭和52年に入社し、勤続44年となりました。
60歳を過ぎ、故郷、静岡で豊臣秀吉の辞世の句のように、「露と落ち 露と消えにし 我が身かな 駿河のことは 夢のまた夢」なんてことになる予定だったのですが・・・
人生とは分からないものです。
話を、昭和47年に「タイムスリップ!」します。

静岡県立島田工業高校土木科を卒業し、ある橋梁工事会社に就職しました。
就職試験の面接で、志望動機を聞かれたとき、「教室の床に、御社のパンフレットが落ちていたので、ご縁と思い決めました」と応えたんですが・・・
今考えれば途方もない事を言ってしまったものですが、そこはまだ、18歳の子供ですからお許し下さい。(実は、就職試験から家に戻る前に合格通知が届いており、引く手あまたの時代だったんです)

そして、首都高速 横浜Y工区、山形の白川ダム中津川橋(ニールセンローゼ橋)工事を経て、東北自動車道(宮城県白石工区)白石川橋上部工工事に従事しました。
時は、昭和48年第4次中東戦争勃発を契機として始まった石油危機「第一次オイルショック」の頃で、燃料調達に苦労したことを憶えています。
(長距離トラックを頼むのに、帰りの燃料を用意しないと来てくれなかった)

下請業者作業員の多くは、地元の建設会社の方々で、当時は美少年だったものですから皆さんに大変可愛がっていただき、様々なことで助けていただきました。
(今では、美少年の面影もないのですが・・・笑)

特に、新成人の際は、宮城県白石市の皆さん、下請けの方々や、特に白石城当主の子孫である片倉氏(宮司)に、祝っていただき歴史好きの私としては感激の極みでした。
昔で言えば、宮城県は「元服」したところなのです。(初めての交通違反も仙台ですが)

そして皆さんも大変な衝撃を受けたと思いますが、2011年の東日本大震災の発生です。
まさに「人生万事塞翁が馬」です。

現在は、宮城県本吉郡南三陸町の復興工事に赴任しております。
今年で、満64歳となり、体力は衰えましたが、経験に基づく知力と気力にて、微力ながら宮城の皆様にご恩返しが出来ればと日々精進しています。